長浦と“舟かくし”

~御所浦の静かな入り江~

牧島西端のマネキ崎と南端の串ヶ崎の間に、その奥へと入り組んだ湾、長浦があります。 地図で牧島の姿を見れば、長浦はちょうど竜があけた大きな口のようです。とても奥深い湾なので、荒い波もなく、そのうえ両岸の入り江は不規則で、袋状をしており、船の泊めるのに適した場所が多く存在します。 その長浦の一番奥まったところの南側の入り江は“舟かくし”(ふなかくし)と呼ばれています。


■舟かくしの由来 “舟かくし”の名の由来ですが、ひとつには平家の落人が隠れ住んでいたためと伝えられています。 落人たちは“舟かくし”に潜み、源氏の追手から身をかくしていました。そして、毎日小高い山の上に見張りを置いて警戒し追手に備えていたとも言われ、その見張りをした場所は“二度出浦”と呼ばれています。 また、逆に平家の落人を追ってきた源義経が、自らが渡って来たことを落人に悟られぬよう、その船をかくしたところであるために“舟かくし”の名がついたとも言われています。

源平伝説がこのように入り乱れた形で残っているのは珍しいとされていますが、平家の落人、源義経を問わず、“舟かくし” の波の静かな入り江が船をとどめるのに適していることは確かなことです。

  • 源平合戦図屏風(部分)



■人の営みはさらに遡る 源平伝説の香り残る“長浦―舟かくし”ですが、長浦の歴史の痕跡はさらに過去へと遡り、古墳時代にはすでに人の営みがあったことが知られています。(※)

御所浦町内で現在古墳時代の遺跡が確認されているのは、牧島の西海岸に面する4ヶ所の古墳であり、その全てが長浦を中心に位置しています。これは何を意味するのでしょうか。

天草地方全域には100ヶ所以上の古墳の存在が確認されていますが、『天草・御所浦―自然と人文―』(編著・坂本経堯)では、これらの古墳は一般庶民の墓ではなく権力者の墓と考えられており、100を越える数の古墳が天草に残ったのは、南朝鮮と関係が深いといわれる菊水町の江田船山古墳の主や、南朝鮮の百済で高い位についた芦北国造の子“日羅”のように、天草の人たちも海を越えて大陸の朝鮮やシナとのつながりによって発展したことが要因であろうとしています。

そして、長浦の古墳に関して、坂本経堯氏は「長浦を停泊の中心とする海洋民の長の墓であり、その拠点になる長浦に出入りする船舶を一望にする島の西岸に墓所を営んだものとも考えられる」と述べ、長浦が船舶集団の拠点になっていたとしています。

遠い昔から人びとは船をあやつり海を渡り、日本中はもとより大陸とも交流し、新しい文化を吸収していたのです。

※御所浦島ではさらに遡った先史時代(縄文時代)の石器が発見されています。御所浦町内での先史時代の遺物が少ないのは、離島という環境は居住可能な地域が少なく、住家や耕作地のために破壊され、消滅してしまったものも多いと考えられます。

  • 黒崎復原古墳:昭和37年に復原された横穴式石室古墳

  • 長浦を中心に古墳が位置しているのが分かる



■そして現在 長浦の入り江は、台風のときでも他の地区と比べ、ずっと波風が穏やかです。
ですので、台風の来る時期に、長い期間遠出をすることになったよその地区の船主が、強風や高波の危険を避けるため、ふだん泊めている港から長浦の入り江に船を移して出掛けることもあります。
長浦に勇志国際高等学校の飼育するイルカの生簀があるのも、海の穏やかさが理由のひとつです。
また、今の長浦は船舶の往来も少ないことから、伝馬船の櫓こぎ体験でも利用されています。車道沿いの桟橋から、伝馬船で少し遠くまでこぎ出せばやがて“舟かくし”へと辿り着きます。
この静かな入り江は、源平伝説や遥かな古墳時代の人びとの営みに思いを巡らせるにはこのうえない場所でもあります。

“長浦―舟かくし”に、一度訪れてみてはいかがでしょうか。